夜。パーティが終わって、久しぶりの我が家だった。
先ほどまでのパーティの喧騒が嘘みたいに静かで、自室のベッドに腰かけていると、窓の外から町の中央にある噴水の水音が異様に大きく響いていた。
このふかふかのベッドにもぐりこんだら、もう逃げられないだろうな。だから、そっと布団をひと撫でだけして、立ち上がる。
ふと、先だって壁に飾った写真が見えた。もうここにはいない親友が笑っている。 僕は右手を写真にそっとかざした。
この右手に宿った紋章を親友は300年守り続けていた。 気が遠くなりそうな時間をたった一人で。
これからは、僕がそうすることにしよう。
大丈夫、君がついているから。 頭にまいたバンダナの結び目をギュッと強くしめなおした。
一階には使用人たちが暮らしている。彼らは、ずっと幼いころから一緒にいて、この戦争を共に戦った仲間でもあった。
ああ、もう会うこともないのかもしれない。別れを言うべきだっただろうか。
いや、別れなんて言ったら、出ていきたくなくなってしまう。
階段を一歩ずつゆっくりと、音を立てないように降りていっていく。かすかに寝息の音が聞こえてくる。
冷たい木の手すりに手を滑らせていると、ここを駆け回って怒られた温かな幼い日々を思い出す。
それだけで、もう決心が揺らぎそうなのに、別れなんて。別れなんて、何度もいらない。
ようやくたどり着いた玄関の扉のドアノブをつかんだ。ここを出たら、もう。
「御出立ですか?坊ちゃん」
ふいに背後から柔らかい声がした。振り返らなくても声の主が誰なのか、間違いなくわかる。幼いころからずっと側にあった声。ああ、でも今一番聞きたくなかった声だった。
開けかけた扉を夜風が押して、扉が閉まりそうになる。そんなに強く押されているわけではないのに。
ふりかえって、ちょっと夜風にあたりたいだけと、喉の奥から声がでそうになる。
…それでいいわけがない。ぐっと冷たいドアノブを握り締めて、夜風を押し返す。
こつん。帝都の石畳に靴底が当たる。あっけないほど簡単に、僕は外に踏み出していた。
さあもう一歩。もう一歩踏み出せば、そのまま振り返らず歩いて行ける。
「ああ、ああ、お待ちください」
でも、彼の声に引き留められてしまう。
ああ、そう。そうだと思った。彼はついてくる気なんだろう。 あの日だってそうだった。
何度も何度も残れと言ったのに、言って聞かないから僕は折れて、それで。
僕は決心した。今度こそちゃんと断るんだ。もう、あの日のようにはならない。
「お前は連れていかないよ」
両掌をぐっと握り締めて、彼の方をにらみつけたら、彼は少し体をこわばらせた。
「いえ、いえ、わかっています。グレミオは足手まといですから…」
あれ。思っていたのと違う言葉が出てきて、僕は動揺した。彼の返答に返す言葉をいくつも考えていたのに、そのどれも彼への答えには合わなくて、言葉は頭の中から霧のように消えていった。その霧は頭の中を真っ白に埋め尽くし、思考を停止させてしまった。
僕の視線は宙を泳ぐ。泳いだ視線が、ふと、彼の手元の赤茶っぽい包みをとらえる。
僕から視線を外し、うつむいた彼は何か風呂敷に包まれたものを大事そうに両手で挟むように持っていた。
その風呂敷には見覚えがある。親友と二人でかけるとき、よく彼が持たせてくれたものと一緒だった。
「お弁当作ったんです。皆さんを起こしてしまうと悪いので、あまり凝ったものは作れなかったんですけれど」
彼はこちらを見なかった。視線を外したまま彼はその包みをこちらに差し出した。
今までどうして気が付かなかったのだろう。周囲にはかすかに何かの甘い香りが漂っていた。
その香りが遠い昔の記憶を呼び起こす。この包みを持って親友と二人で遊びに行く。彼はいってらっしゃいと笑っている。
ああ、あの日と同じなんだ。 僕は、親友と二人で旅立つんだ。彼の、弁当を手に。いってらっしゃいの声を背に。
これ以上の出立はないだろう。
僕は風呂敷の結び目を利き手でつかんでそのお弁当を受け取る。
…あれ、弁当箱がそこから動かない。彼の両手が、弁当箱をがっしりとつかんで離さないのだ。
「…やっぱり、やっぱりダメです!ほら、坊ちゃん、料理できないでしょう?道中のお食事はどうするんですか?お洗濯は?お一人でどうするって…」
顔をバッを上げた彼の瞳は濡れて、揺れていた。そんな目で見ないでほしい。 やけに時間が長く感じられた。
「…ああ、ああ、すみません。こんなつもりでは…」
彼はまたうつむいて、そっと弁当箱から手を離し、自分の肩を抱いていた。
「坊ちゃんは優しいから、また、つい、その優しさに甘えようとしてしまいました。そのせいで、辛い思いをさせてしまったというのに」
忘れてしまいたいようなあの日がまたよみがえってくる。骨すら残らず、ただ彼の緑色のマントと斧だけが、冷たい石の床に転がっていたあの日が。
僕が折れなかったら、ちゃんと説得出来ていたらあんなことにはならなかったのに。
「グレミオは勘違いをしていました。あの時、私は坊ちゃんに、はじめて命に背くと言いました。でも、違いますよね。坊ちゃんが散々残れと言ったのに、私が駄々をこねて困らせて、坊ちゃんに連れていくと言わせてしまって…それは、命に背いていたのと同じことです」
彼はゆっくり、一歩後ろに引いた。一歩だけなのになんだかすごく遠く感じた。冷たい夜風が二人の間を抜けていく。まるで決別をあらわすかのように。
彼が顔を上げると、そこにあったのは、いってらっしゃいと笑っていた時と同じ顔。だけど、さみしさがにじんでいるように見えるのは、僕がそう思いたいからなのだろうか。
「グレミオはいつまでもここでお待ちしていますから」
彼は子供に手を降るみたいに小さく手を挙げた。だが、その指先は震え、本当に言いたい言葉をぐっと押さえつけているかのようだった。
僕はゆっくり目を閉じた。懐かしい日々が瞼の裏に浮かんでくる。それらを思い出せば、彼が何を望んでいるのか、彼が言葉にしなくてもわかる。
風呂敷の結び目を利き手とは反対に持ち替えて、そっと利き手を差し出した。
「…坊ちゃん?」
「着いてこないと、お前、心配で倒れてしまいそうだよ」
「え?ええ?そ、そんなことは…あるかも…しれません…」
僕はその返答にくくっと笑っていた。それにつられたのか彼もふっと笑っていた。寂しさはどこかに消えていた。
そういえば、親友と二人で出かけたあの日も、本当はついていきたそうな顔をしていたのに気が付いていた。
遊びに行くのに保護者がついてくるなんて、恥ずかしかったし、うっとおしかったから、ついて来いなんて言わなかった。
でも、今は。 じゃあ、今度は3人で出かけようか。世界の果てまでも。
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